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師勝西小 合言葉 「あ」あいさつを大切にする 「い」いのちを大切にする 「ち」ちえを育む

201214  「 ベートーヴェン ー負けない心で未来を創るー 」

おはようございます。
今日は、私が尊敬する「ベートーヴェン」の話をしたいと思います。名前を聞いたことがありますか。今年は、彼が生まれてから250年目の年になります。多くの番組やニュースでも報道されていますね。
特に年末になると、第九といって「歓喜の歌」がよく流れます。
今から250年前の1770年12月16日、明後日ですね。彼はドイツの都市ボンの宮廷音楽家の家に生まれました。父はモーツァルトの父子を理想として、3歳からベートーヴェンに音楽の教育をしました。そのため、彼は小1にあたる7歳で演奏会を開き、小6の11歳で作品を初出版するなど、幼いころから驚くほどの才能を発揮しました。お父さんはとても厳しく、彼が曲を弾き通せるまで、食事も与えずに部屋へ閉じ込めたり、暴力をふるったりもしたそうです。これはいけません。
高校1年生くらいの16歳の時にはウィーンへ行き、尊敬するモーツァルトの前で演奏しました。
20歳のとき、ベートーヴェンは、お師匠さんとなるハイドンと知り合います。ハイドンに彼は弟子入りをするのです。道を極める人はお師匠さん・先生が必ずいるものですね。
そんな中、彼を苦しめる運命の足音は、ひたひたと彼のすぐそばまで近づいていました。
それは、20代後半から始まった、耳の不調です。そんな28歳のころ作曲したのが≪悲愴≫です。悲愴とは悲しみに暮れ、痛ましい気持ちのことです。しかし彼は、この時期の友人へ当てた手紙に、「この運命に打ち勝つ」とか、「自分の新しい音楽を作り上げて世に出したい」という決意を書き、送っています。
やがて30代のころ、耳がほとんど聞こえなくなってしまいます。でも、そんな体になってもベートーヴェンは、ウィーン北部の村ハイリゲンシュタットで、33歳の時に不朽の傑作《英雄》を作曲。36歳で「ヴァイオリン協奏曲」を、38歳で村に流れる小川沿いを散歩してイメージした曲《田園》を、39歳で不朽の傑作《皇帝》。そして40歳で≪エリーゼのために≫を完成させるのです。すごい勢いです。とても情熱あふれる強い心だと思いませんか。
しかし、どんどん耳の病気は悪化し、45歳からはとうとう何も聞こえない状態になってしまうのです。
普通の人なら、音が聞こえない、耳が不自由になったなら落ち込んで、やる気を失うものです。
彼は、音を職業にしている音楽家にもかかわらず、音の聞こえない音楽家になってしまったのです。
みなさんなら、どうしますか?でも、彼は負けないのです。彼は音楽をやめるどころか、もっともっとやる気を出していくのです。知恵を出し、音楽家で初めてメトロノームを使い、テンポの速さを目で見ながら作曲し、ついに最高傑作である人間の声、合唱を入れた「交響曲第9番《歓喜の歌》」を54歳で完成させるのです。そして、2年後の56歳。「楽聖」と呼ばれ、世界中の人に影響を与えた彼は、雷の閃光と雷鳴の中、右手をあげて息を引き取ります。ウィーンにある彼のお墓は、メトロノームの形をしています。
校長先生はベートーヴェンを尊敬しています。彼のどんな大変な中でも負けない心に感動しています。
ベートーヴェンは、“ご近所トラブル”が絶えず、引っ越しばかり60回もしたと言われています。また、コーヒーは必ず60粒の豆をひいてつくると決めていたなど、少し変わった人とも言われています。
ですが、それまで貴族のための宮廷の音楽であったのを、市民や民衆のための音楽にしたのも彼です。彼はプロの音楽家として活躍し、彼こそが「音楽の未来を形創った存在」だと思っています。
この師勝西小学校からも負けない心で未来を創る人が育つことを願っています。

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